01 黎明 02 復興と成長 03 飛躍 04 平成 05 未来
第二章

復興と成長

1946 – 1972

焼け跡から、もう一度立った26年。
特需より信用を選び、
社員の机から5つの信條が生まれた。

第2章「復興と成長」 1946-1972 ─ 焼け跡から立ち上がるナガシマ
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昭和二十一年 春

恵比寿の焼け跡に バラック一棟

資本金五十万円 社員三名

長島興業株式会社 ここに再出発

手持ちの木材を 復興へ

戦災者の住宅へ 米軍宿舎へ

昭和二十四年 長野・松本へ

関東を越え 地方へと足を伸ばす

昭和二十五年 朝鮮動乱

戦時特需の誘いが 幾度も来た

だが國治は 手を出さなかった

「金儲けだけでは ない」

信用第一の道を 貫いた

昭和二十七年 七月十一日

『長島梱包株式会社』 現商号となる

昭和二十九年 東京都知事賞

昭和三十一年 通商産業大臣賞

昭和三十六年 戸塚工場 開設

日立工場の門前で 半世紀の縁を結ぶ

昭和三十八年・四十二年

本社が 二度 焼けた

だが翌日には 仮社屋で仕事は続き

木造から 鉄筋へと建て替えた

昭和四十四年

社員の机から 言葉が集まり

やがて ひとつに束ねられた

5つの信條

同年三月 國治 藍綬褒章を受章

昭和四十七年 十二月四日

創業者 長島國治 永眠 享年六十九

同月 長島子之吉 社長就任

だが 遺されたのは 空白ではない

焼け跡のバラックは 鉄筋四階建ての本社へ

焼け跡から、二十六年

復興は、たしかに成長になった

Key Moments / 10の瞬間

焼け跡から、信條の朝まで。
26年を貫いた、10の瞬間。

国家の動乱と高度経済成長の渦中で、長島梱包が選んだ道。特需より信用、量より質、そして言葉。すべての判断の根拠が、ここにある。

01 / 10 再起
1946年S21
日立系列として再出発

「長島興業株式会社」へ商号変更、
日立系列企業として再出発。

焼け跡のバラックを事務所兼住居に、資本金50万円で再出発。日立製作所系列として、物的流通の大動脈運営管理を所管する役割を担う。戦災者用の応急簡易住宅にも木材を回した。

02 / 10 拠点拡大
1949年S24
松本工場 開設

長野・松本へ。
宮田製作所の要請に応えて。

松本市出川町888番地。宮田製作所からの要請で開設。後に富士電機松本工場の主要梱包拠点となり、長島梱包の地方展開の原点となる。

03 / 10 節目
1952年S27
現商号「長島梱包株式会社」

7月11日、
現商号への商号変更。

梱包業で日本最初のJIS表示許可工場として通産省認可。日立製作所戸塚工場から優良下請表彰。「梱包」を社名の中心に据えた、信用第一の宣言だった。

04 / 10 最初のグループ会社
1955年S30
長國木材株式会社 設立

木材の安定供給へ、
最初のグループ会社。

資本金を200万円に増額し、長國木材株式会社を資本金100万円で設立。梱包の最重要資材である木材を、グループとして自社で押さえる経営判断。後の多角化の原点。

05 / 10 受賞
1956年S31
通商産業大臣賞

石橋湛山通産大臣から、
第7回輸出品包装展で受賞。

1954年の東京都知事賞(安井誠一郎都知事)に続く快挙。「輸出梱包」という名前のない技術が、国家レベルの賞で評価された瞬間。

06 / 10 日立との半世紀
1961年S36
戸塚工場 新設

横浜・戸塚原宿の松林に、
日立工場の門前で立つ。

4月、横浜市戸塚区原宿町に梱包工場・倉庫・戸塚寮を新設。日立製作所戸塚工場の門前町に拠点を構え、大型電機・重電機・輸出向けプラントの梱包を引き受ける。1979年トライウォール工場、1992年「物流創造」へと続く半世紀の起点。

07 / 10 三度焼ける
1963/1967S38/42
本社、二度の不審火

焼けても、焼けても、
本社は立ち上がった。

1963年3月、本社工場が不審火で約1/3焼失。隣接地に仮社屋を建て、その日のうちに業務再開。1967年5月、二度目の不審火で約2/3焼失。資本金を1500万円から2000万円に増額し、鉄筋4階建ての新本社ビル建設へ。1945年の戦災と合わせ、26年で三度焼けて、三度立った。

08 / 10 業界貢献
1966年S41
東日本輸出梱包工業組合 設立

業界に組合を、
國治、初代理事長へ。

10月、東日本輸出梱包工業組合が設立され、長島國治が初代理事長に就任。同じ年、日立のベネズエラ向けクロスバー交換機C-22型 第1号機の輸出梱包に成功。1969年の藍綬褒章の「永年業界団体の指導的地位」評価の根拠となる。

09 / 10 信條 ・ 褒章
1969年S44
五ヶ条制定 ・ 藍綬褒章

社員の机から、
五ヶ条が生まれた朝。

全社員から提案を募り、子之吉常務を長とする幹部審査で「信條」五ヶ条が制定。同年3月29日、佐藤栄作内閣総理大臣から長島國治が藍綬褒章を受章。

10 / 10 襷渡し
1972年S47
國治永眠 ・ 子之吉就任

12月4日、創業者逝く。
同じ月、世代交代。

1972年12月4日、長島國治が永眠、享年69歳。同月24日、田中角榮内閣総理大臣により従六位勲五等瑞宝章を授与。その月のうちに長島子之吉(41歳)が代表取締役社長に就任。残されたのは、5つの言葉と若い社長だった。

ドラッグ、または左右の矢印で、26年を辿る
1969年 / Birth of the Five Creeds

五ヶ条は、机の上で
考えられたものではない。
現場の言葉を、
束ねたものだ。

1969年。創業から43年が経った長島梱包に、全社員から信條案の紙片が集まりはじめた。「これだけは大事にしたい」という、1人1行の言葉。

子之吉常務を長とする幹部審査がそれを磨き、五行に束ねた。同じ年の3月29日、創業者・長島國治は佐藤栄作内閣総理大臣から藍綬褒章を受章する。
言葉と賞は、同じ年に生まれた。

INTERACTIVE

投書箱を、開けてみる

1969年、社員ひとりひとりの机から集まった紙片。
クリックして、五ヶ条が「束ねられる」瞬間を体験してください。

社員インタビューを読み込んでいます…
第三章

飛躍と多角化

1973 – 1993

創業者を送り、二代目が継いだ。
逆風を、得意先の信用が支えた。
会社は、拠点と事業を広げつづけた。

第3章「飛躍と多角化」 1973-1993 ─ 長島梱包 本社と戸塚工場
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喪から始まり、信用で終わる二十年。

第三章 ナレーション全文

昭和四十七年 十二月四日

創業者 長島國治 永眠 享年六十九

十二月十日 社葬が 営まれた

恵比寿駅から 郵便局まで

道の両側に 花輪が並んだ

創業者を失った衝撃は 大きかった

その時の様子を

倉庫で二十六年 働いた社員が

退職の手記に こう残している

必死になれば 一人の力も 何倍の力となり
「団結力」の威力を まざまざと知らされました

ある倉庫係の手記 社内報 No.16(昭和63年)より

社葬のあと

常務の 長島子之吉が 二代目の社長になった

受け継いだのは 建てたばかりの本社ビルと

先代が 半世紀かけて築いた 得意先との信用である

信用は 人につく

その人を失って なお残るのか

答えは 一年で来た

昭和四十八年

オイルショックで

主資材の 木材が 高騰した

会社は 値上げを 願い出るしかなかった

だが 得意先は それを 受け入れた

信用は 残っていた

逆風のなかでも 会社は

広げることをやめなかった

昭和五十年

一月 名古屋

四月 郡山

十二月 戸塚に トライウォールの工場

この年 新しい拠点が 三つ増えた

その十月

八芳園で 創業五十周年記念を 祝った

昭和五十一年からは

得意先の荷を追って

技術者が 海外へ出張した

東アフリカ 中東 シンガポール 中国

現地で 開梱作業 梱包指導を行った

きっかけを 当時の技術者が

こう残している

自分らが梱包した製品が
どういう状況で現地に着くのか
どのように扱われるのか
業界でもそれを
調べる機会がなかった
(中略)
頑丈に仕上げた重量荷物でも
フォークリフトがないというだけで
トラックの荷台から
落とすように降ろせば
壊れてしまう

当時の技術社員の回顧 社史『七〇年のあゆみ』(平成8年)より

信用は 現場でしか 積めない

昭和五十五年 半年のあいだに

関連会社を 二社つくった

一社目は 物流ではない

不動産と

社員と家族の保険を 受け持つ会社だった

二社目が ナガシマ物流サービス株式会社である

昭和五十九年

戸塚で始めた トライウォール事業は

ナガシマ包材サービス株式会社として

独り立ちする

平成元年には

マリコールジャポン株式会社

フランスの化粧品を 日本で扱う会社だった

梱包の会社が 化粧品まで

手がけるようになった

喪失から 始まった二十年だった

守りに入らず 広げつづけた

積み直したのは 信用である

この二十年で 広げた拠点と会社が

いまの わたしたちの 土台になった

昭和四十七年 十二月四日

創業者 長島國治 永眠 享年六十九

十二月十日 社葬が 営まれた

恵比寿駅から 郵便局まで
道の両側に 花輪が並んだ。

創業者を失った衝撃は 大きかった。

その時の様子を
倉庫で二十六年 働いた社員が
退職の手記に こう残している。

必死になれば 一人の力も 何倍の力となり
「団結力」の威力を まざまざと知らされました

ある倉庫係の手記 社内報 No.16(昭和63年)より

社葬のあと
常務の 長島子之吉が 二代目の社長になった。

受け継いだのは 建てたばかりの本社ビルと
先代が 半世紀かけて築いた 得意先との信用である。

信用は 人につく
その人を失って なお残るのか。

答えは 一年で来た。

昭和四十八年

オイルショックで
主資材の 木材が 高騰した。

会社は 値上げを 願い出るしかなかった。
だが 得意先は それを 受け入れた。

信用は 残っていた。

逆風のなかでも 会社は
広げることをやめなかった。

昭和五十年

一月 名古屋
四月 郡山
十二月 戸塚に トライウォールの工場

この年 新しい拠点が 三つ増えた。

その十月
八芳園で 創業五十周年記念を 祝った。

昭和五十一年からは

得意先の荷を追って
技術者が 海外へ出張した。
東アフリカ 中東 シンガポール 中国。

現地で 開梱作業 梱包指導を行った。

きっかけを 当時の技術者が
こう残している。

自分らが梱包した製品が
どういう状況で現地に着くのか
どのように扱われるのか
業界でもそれを
調べる機会がなかった
(中略)
頑丈に仕上げた重量荷物でも
フォークリフトがないというだけで
トラックの荷台から
落とすように降ろせば
壊れてしまう

当時の技術社員の回顧 社史『七〇年のあゆみ』(平成8年)より

信用は 現場でしか 積めない。

昭和五十五年 半年のあいだに

関連会社を 二社つくった。

一社目は 物流ではない。
不動産と
社員と家族の保険を 受け持つ会社だった。

二社目が ナガシマ物流サービス株式会社である。

昭和五十九年

戸塚で始めた トライウォール事業は
ナガシマ包材サービス株式会社として
独り立ちする。

平成元年には

マリコールジャポン株式会社。
フランスの化粧品を 日本で扱う会社だった。

梱包の会社が 化粧品まで
手がけるようになった。

喪失から 始まった二十年だった。
守りに入らず 広げつづけた。

積み直したのは 信用である。

この二十年で 広げた拠点と会社が
いまの わたしたちの 土台になった。

1枚感謝状と表彰状

信用は、かたちになって残っていた。

そして、一枚の地図の上で、
グループは広がりはじめた。

KEY MOMENTS / 二代目が広げた地図

創業者を送った翌年にオイルショック。
それでも、拠点は増え続けた。

スクロールで、1972年からの歩みを辿る。

1972
4拠点

国土地理院

1972.12 – 1973

社葬のあと、ただちに。
41歳の二代目が、社長になった。

社長就任のころの長島子之吉(1973年)

創業者が逝った二十日後に瑞宝章が届いた。
社葬のあとただちに開かれた臨時取締役会で、常務取締役・長島子之吉が代表取締役に選ばれた。
受け継いだのは、建てたばかりの本社ビルと、先代が半世紀かけて積んだ得意先だった。

国土地理院

1973.10

値上げを願い出た。
得意先は受け入れてくれた。

第四次中東戦争を契機に物価は狂乱状態に陥り、主資材の木材が高騰した。
「消費は美徳」が「節約は美徳」に変わり、翌年の実質経済成長率は戦後初めてのマイナスになった。
会社は値上げを願い出るしかなく、得意先はそれを受け入れてくれた。
「信用」が試練を支えた、先代からの遺産であった。

1975.1 / 1975.4

一月に名古屋へ。
四月には郡山へ。

1月に愛知県尾張旭市へ名古屋出張所、4月に福島県郡山市へ郡山営業所。
得意先の工場が地方へ移るのに合わせて、包む現場も動いた。
名古屋は、協力会社の事務所を間借りしての出発だった。

国土地理院

1975.12

広げることをやめなかった。

狂乱が収まった年の暮れ、米国系メーカーと技術提携。
戸塚工場の中に、軽くて強い段ボール「トライウォールパック」の加工工場を開設した。
同じ月、恵比寿には鉄筋四階建ての東京第二倉庫が建っている。
開設も、提携も、五十周年の式典も、すべて同じ年である。

1977.2 / 1977 –

技術者を海の外へ。

中国・西安 CPTの解梱立会(1980年)

2月、名古屋出張所が名東区へ移った。
そしてこの年から、技術者の海外派遣が始まる。
東アフリカへ、中東六ヵ国へ。やがてシンガポール、西安、上海、福州、北京。
包んだ荷物がどう届いたかを、自分の目で確かめに行った。

国土地理院

1978

郡山は三年で手狭になった。

開設から三年で、郡山営業所は横塚へ移った。
地方の拠点は、得意先の生産が伸びれば、そのぶん先に手狭になる。

国土地理院

1979.11

開いた先から
手狭になる。

長島第2ビル竣工(1979年11月)

長島第2ビルが完成。
同じ月、戸塚工場の中にあったトライウォール工場を、横浜市戸塚区上矢部町へ移した。
開いた先から手狭になる。それが、この時代の実感だった。

1980.6 / 1980.12

半年で、二社。

6月に関連会社を一社、12月にナガシマ物流サービス。どちらも資本金五百万円。
はじめの一社は物流ではなく、不動産と、社員と家族の保険を持つ会社だった。
梱包から、輸送、保管まで。任される範囲が広がっていった。
それが、いまのグループの形につながっている。

この二十年で広げた拠点と会社が
いまの私たちの土台になった。

1993 ─── 2026

国土地理院

OUR SITES / いまの現場

そして、いまの現場。

あのとき広げた地図は、4社17の現場になった。
北は岩手から、西は名古屋まで。

四つの工程が、そのまま事業の区切りになっている。

木箱の設計から、梱包、保管、輸送まで。
二代目の時代に任される範囲が広がったぶん、いまは一つの荷物を最初から最後まで見届けられる。
4社17の現場は、バラバラの点ではなく、1本の流れとしてつながっている。

この流れ全体を、支えているものがある。

OUR MISSION

包む・運ぶで、世界中に喜びを届ける。

この流れの終点は、日本の外にもある。
第三章で技術者が海を越えた先——東アフリカ、中東、シンガポール、西安、上海、福州、北京。
いま荷物を送ったことがある国と地域の数は、集計中(通関書類と担当の記憶から洗い出し)。

NEXT EPISODE / 次回予告

百年の物語は、つづく

第四章

平成の挑戦

1994 – 2015 / 12月末公開予定

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