Episode 01

黎明の時代

1926 – 1945

大正の終わり、大八車一台で始まった商い。
激動の20年を駆け抜けた、ナガシマグループの原点。

黎明の時代
BGM+ナレーション付き
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100年前 東京・恵比寿に 一枚の看板が掲げられた

そして その二十二年前

明治三十七年 秋 日露戦争のさなかに

茨城の農村に 一人の男児が産声をあげた

名は 長島國治

大正八年 春 十五歳 単身上京

芝の稲数製箱所で 鉋を握る日々

大正十四年 水戸連隊へ入営

妻を故郷に残して 一年十ヶ月の兵役を経て

戻った東京で待っていたのは

復職 拒否であった

『長島國治商店』

恵比寿に一枚の看板を掲げた

明くる昭和二年の春 木材問屋 田中屋主人の一言

「金がないなら後払いでよい。

 材木を持って、仕事をしたらどうか」

創業わずか二年 大口の取引先から受けた手形が

不渡りとなった 一五〇〇円 当時 家が一軒建つ額

打ちひしがれた國治のもとに 田中屋 主人がふたたび現れた

「気を落とすな。しっかりやれ」

信用第一 その原点はこの日刻まれた

荷馬車で薪炭を運び 木箱を詰めた

雨の日も 雪の日も 納期を守り続けた

やがて 三輪車 戸塚の工場 そして日立との縁

時代が戦争に傾いても 荷は止まらなかった

昭和二十年 五月二十五日

恵比寿工場全焼 機械も在庫も消えた

それから二ヶ月後 國治自身にも赤紙が届いた

だが信用は焼けない

人と人との縁は焼けない

残ったものから始める

これが ナガシマの始まりである

100年前 東京・恵比寿に
一枚の看板が掲げられた
そして その二十二年前
明治三十七年 秋
日露戦争のさなかに
茨城の農村に
一人の男児が産声をあげた
名は 長島國治
大正八年 春
十五歳 単身上京
芝の稲数製箱所で
鉋を握る日々
大正十四年 水戸連隊へ入営
妻を故郷に残して
一年十ヶ月の兵役を経て
戻った東京で待っていたのは
復職 拒否であった
『長島國治商店』
恵比寿に一枚の看板を掲げた
明くる昭和二年の春
木材問屋 田中屋主人の一言
「金がないなら後払いでよい。
 材木を持って、仕事をしたらどうか」
創業わずか二年
大口の取引先から受けた手形が
不渡りとなった
一五〇〇円
当時 家が一軒建つ額
打ちひしがれた國治のもとに
田中屋 主人がふたたび現れた
「気を落とすな。しっかりやれ」
信用第一
その原点はこの日刻まれた
荷馬車で薪炭を運び
木箱を詰めた
雨の日も 雪の日も
納期を守り続けた
やがて 三輪車 戸塚の工場
そして日立との縁
時代が戦争に傾いても
荷は止まらなかった
昭和二十年 五月二十五日
恵比寿工場全焼
機械も在庫も消えた
それから二ヶ月後
國治自身にも赤紙が届いた
だが信用は焼けない
人と人との縁は焼けない
残ったものから始める
これが
ナガシマの始まりである
「使っている鍬は光る」── 創業者・長島國治の信條
Interview

時を超えた対話
── 創業者が語る、あの日々

大八車一台で始めた商い、恐慌の夜、戦火の中の決断——
創業者・長島國治が、静かに二十年の歩みを振り返ります。

残された資料・証言・社史をもとに再構成したインタビューです
長島國治
長島 國治
ナガシマグループ 創業者(1904–1972)
1904明治三十七年十月十三日、茨城県猿島郡綱島村大字関戸に農家の四男として生まれる
1919十五歳で単身上京。芝の合資会社稲数製箱所にて木箱製造の修業を始める
1925水戸歩兵第二連隊に入営、一年十ヶ月の兵役に就く
1926恵比寿にて長島國治商店を創業。大八車一台で薪炭販売を始める
1927春、薪炭販売から木箱製造・梱包業へ転換
1937戸塚工場を開設。日立製作所の精密梱包受注を皮切りに、梱包専業として本格的な事業基盤を築く
1940長島國治商店を法人化。運送会社の統合合併により宝運送の社長にも就任
1944日本梱包工業株式会社を渋谷区恵比寿に設立。海軍監督工場に指定される
1945五月、空襲により全施設焼失。七月、二度目の召集で本土決戦部隊に出征。八月十五日、戦地で終戦を迎える。九月初旬復員、十二月に工場・従業員宿舎の再建を完成。長島興業株式会社に改称
1948長島梱包運輸株式会社に改称
1952長島梱包株式会社に改称(現社名)
1969藍綬褒章を受章
1972逝去。享年六十八歳。従六位 勲五等 瑞宝章を賜る

歴任した主な役職

全日本輸出梱包工業組合連合会 初代理事長

全国木箱工業連合会 会長

社団法人東京包装協会 会長

東京都運送事業協同組合 理事長

東京都包装木箱紙器協同組合 理事長

東京貿易会ヨーロッパ旅商団 団長

座右の銘は父から受け継いだ「使っている鍬は光る」。
その一生は弔辞で「梱包界の歴史そのもの」と称された。

國治 15歳
國治 22歳
國治 27歳
國治 35歳
國治 41歳
長島 國治
1904 – 1972
十五歳 — 単身上京
第一章 — 単身上京
國治 15歳 十五歳 — 単身上京
Q
國治さんが十五歳で茨城を出て東京に向かったとき、
どんなお気持ちでしたか。
▶ リップシンク動画(Q1)
ここに動画を埋め込み

……怖いとか、寂しいとか、そういうことは正直あまり考えませんでした。四男でしたから、家には田んぼを継ぐ場所がない。生まれた時から、出て行くことは決まっていたようなものです。

母が最後に「体だけは気をつけて」と言いました。それだけです。父は何も言わなかった。ただ、背中を向けて畑に出て行きました。あの背中が、いまでも目に残っています。

東京に着いて、芝の製箱所というところで住み込みの修業を始めました。朝から晩まで、木の匂いの中で怒鳴られ続ける毎日です。親方は厳しい方でした。「角が甘い、やり直せ」と、何十回同じことを言われたかわかりません。でも、あの厳しさがなければ、私はまともな箱ひとつ作れなかったでしょう。

出て行くことは決まっていた。
だから怖いも何もない。
やるしかなかっただけです。

大正八年(1919年)五月、茨城県猿島郡綱島村大字関戸を離れ十五歳で上京。
芝の合資会社稲数製箱所で木箱製造の技術を修業した後、
大正十四年(1925年)一月、水戸歩兵第二連隊に入営し一年十ヶ月の兵役に就く。
第二章 — 創業
國治 22歳 二十二歳 — 創業
Q
二十二歳で独立されました。
大八車一台で商売を始めた日のことを教えてください。

一年十ヶ月の兵役を終えて、東京に戻りました。二十二歳のときです。手にはかんなが一丁。それと、修業で覚えた腕。そのまま稲数製箱所に戻るつもりでおりました。

ところが——復職は、叶いませんでした。親方に呼ばれて、「不況で苦しいこの時期に、お前を戻してやるわけにはいかない」と。頭を下げて、何度も頼みました。でも、答えは変わりませんでした。

帰り道、何も考えられませんでした。六年、住み込みで奉公した先です。戻る場所だと思っていた場所が、もう戻る場所ではなくなっていた。手元に残ったのは、かんな一丁だけでした。

兵役に就く前、大正十三年の秋に女房のゑいと一緒になりました。まだ何も持っていない男についてきてくれた。あれがなければ、独立の覚悟は決まらなかったかもしれません。

大正十五年の十二月です。恵比寿に、大八車を一台置いて、そこが「長島國治商店」の始まりでした。看板も出していません。ただ車と炭俵があるだけです。最初は薪炭の配達だけでした。

翌・昭和二年の春、ようやく木箱づくりにも手を広げました。はじめて納めた木箱のことは、よく覚えています。先方の担当の方が、箱を手に取って角を確かめて、「……ちゃんとした箱だな」と、ぽつりと言ってくれました。あのひと言で、手が震えたのを覚えています。嬉しかったのとも少し違う。ほっとした、というのが近いでしょうか。自分の腕が、世の中に通用した。それが初めてわかった瞬間です。

それからは、昼は薪炭の配達、夜は木箱づくり。いつ寝ていたのか、自分でもわからないような日々でした。冬が一番きつかった。指が動かなくなるんです。箱を落としそうになる。それでも届ける。届けなければ次の注文はないですから。

「ちゃんとした箱だな」——
あのひと言で、自分の腕が
世の中に通用したとわかりました

大正十五年(1926年)十一月、除隊後に稲数製箱所への復職を希望するも、
不況を理由に拒否される。同年十二月、恵比寿にて長島國治商店を創業。
創業当初は薪炭販売のみ。昭和二年(1927年)春に木箱製造・梱包業へ転換し、
薪炭と兼業しながら基盤を築く。
当時の主な取引先は東亜電機株式会社、北辰電機製作所など。
第二章 — 恐慌と信条
國治 27歳 二十七歳 — 恐慌と信条
Q
創業間もなく、金融恐慌と世界恐慌が重なりました。
やめようと思ったことはありましたか。

……ありました。一度だけ。

昭和の初めに金融恐慌が来て、すぐあとに世界恐慌です。注文が消えました。取引先も潰れました。帳簿を何度計算しても、答えは同じ。ある晩、ろうそく一本の明かりの下で、そろばんを弾きながら、はじめて「やめようか」と思いました。

隣の部屋で、女房と、昭和六年に生まれたばかりの長男・子之吉が寝ていました。あの寝息が聞こえてきて、どうしようもなくなりましてね。この子に何を残してやれるのか。考えると、手の震えが止まらなかった。

でも、翌朝になったら、また大八車を引いていました。不思議なもので、体が勝手に動くんです。そのとき、親父の声が聞こえた気がしました。

使っている鍬は光る。
怠けた道具は錆びる。
おまえもそうだ。

── 國治の父の言葉

父が畑で言っていた言葉です。鍬というのは、使い続けていれば刃が土で磨かれて光るんです。放っておけば錆びる。人間も道具も同じだと。

あの言葉に何度救われたかわかりません。手が止まりそうになるたびに、親父の背中が見えました。畑で黙って鍬を振るっている、あの背中が。

……ああ、それと。父の言葉だけではありませんでした。もう一人、恩人がいます。

恵比寿駅前の木材問屋、田中屋さんです。創業するとき、「金がないなら後払いでいいから材木を持って行け」と言って、信用だけで木材を卸してくれた方でした。それが一度目の救い。

昭和二年の三月、世間はもう金融恐慌で騒がしかった。そんな中、大崎の電気会社さんから大きな注文が来ましてね。稲数製箱所時代の得意先でした。喜び勇んで仕事を仕上げて納めた。……ところが、届いた手形が不渡りでした。1,500円。長島國治商店ができて、二年目のことです。

田中屋さんへの支払いができない。頭を下げに行きました。事実をそのまま申し上げて、「金がありません」と。叱られるのを覚悟していました。

ところが田中屋の主人は、私の話を最後まで黙って聞いたあと、こう言いました。「金がないなら、後払いでいい。材木を持って行って、もっと仕事をしなさい」と。

……これが、二度目の救いです。創業のときと、同じ言葉でした。

昭和二年(1927年)金融恐慌、昭和四年(1929年)世界恐慌。
長島國治商店の売上は半減したが、大八車での配達を止めることはなかった。
昭和二年三月には大崎の電気会社から1,500円の不渡り手形をつかむも、
恵比寿駅前の木材問屋・田中屋主人の救いにより窮地を脱する。
昭和六年(1931年)二月、長男・子之吉が誕生。
第三章〜第四章 — 成長、そして暗闘
國治 35歳 三十五歳 — 成長、そして暗闇
Q
戸塚に工場を建て、日立さんとの仕事が始まりました。
その矢先に戦争が——。あの時代をどう乗り越えられたのですか。

創業してから十年あまり経った頃です。日立さんが戸塚に工場をお建てになるという話を聞いて、迷う暇もなく、うちも後を追いました。

更地に立ったときのことを覚えています。何もない空き地でした。測量の杭が数本あるだけ。でも目を閉じると、工場が見えた。金も人も足りなかったけれど、自分の手で、一本ずつ柱を立てました。昭和十二年の五月に、戸塚の工場が開いたとき——あのときだけは、少し笑ったかもしれません。

日立さんだけではありません。沖電気さん、日本タイプライターさん、北辰電機さん……気がつけば百を超える会社の木箱を作っていました。大八車一台で始めた男の仕事が、ここまで来たのかと。それは嬉しいというより、怖いことでもありました。一つでも手を抜けば、百の信用が消える。

日立さんの仕事は、一分の狂いも許されませんでした。木箱づくりではなく、機械の命を預かる仕事でした。従業員も増えて、昼休みにみんなで弁当を食べて、「社長、たまご焼き交換しましょうよ」なんて言われて……この頃がいちばん良かったと、あとになって思いました。

昭和十二年。盧溝橋。街から若い男たちが消えていきました。木材が来ない。人が来ない。国が持っていった。弾薬箱や軍糧品の木箱を作れと言われました。丁寧に作る必要はないと。……それでも、手は抜けませんでした。

昭和十九年には恵比寿に日本梱包工業という会社を作らされましてね。海軍の監督工場です。私自身も海軍技術廠に服務しました。工場の力の九割を軍に差し出して、自分の仕事はもうほとんど残っていなかった。精密兵器の梱包です。前線に届ける、最後の仕事でした。

海軍の命で、茨城の古河に臨時の製材所も作りました。……十六で出た故郷の方角に、まさか軍の仕事で戻ることになるとは思いませんでした。感傷に浸る暇はなかったけれど。

一番つらかったのは、若い工員を兵隊に取られることです。赤い紙を持って震えている十八、十九の子を見ると——私は書類を書きました。何度も何度も、「この男はここに必要だ」と。全員は守れなかった。でも、書ける限り書きました。

灯火管制の夜、ランプの芯を細く絞って、
手だけを動かし続けました。
子之吉はもう十四です。
この工場を渡すまで、止めるわけにはいかなかった。

そして昭和二十年の五月です。空襲でした。工場も、事務所も、全部焼けました。十九年かけて積み上げたものが、一夜で灰になった。あの焼け跡に立ったときのことは……今でも、うまく言葉にできません。

昭和十二年(1937年)戸塚工場開設。日立製作所の精密梱包受注を開始。
日立製作所・沖電気・日本タイプライター・北辰電機など百数社の精密梱包を受注。
国家総動員法により資材・人員が統制下に置かれる。
昭和十五年(1940年)宝運送の社長に就任。
昭和十九年(1944年)日本梱包工業株式会社を設立、海軍監督工場に指定。
國治自身も海軍技術廠に服務、工業能力の90%を軍に供出。
茨城県古河市に臨時製材所を設置・運営。
昭和二十年(1945年)五月、空襲により工場・事務所等の全施設が焼失。
終章 — 夜明け
國治 41歳 四十一歳 — 夜明け
Q
昭和二十年、八月十五日。
すべてを失ったあの日のことを、最後にお聞かせください。

……終わったのか。それが最初に思ったことです。

玉音放送は、戦地で聞きました。五月に工場は全部焼けていました。その二ヶ月あと、七月に私自身にも召集令状が届いたのです。二度目でした。一度目は昭和十六年、そのときは一年ほどで戻ってきましたが、今度は本土決戦の準備部隊です。もう帰れないかもしれない——そう思いながら出征しました。

それが、八月十五日。戦地で放送を聞いて、ああ、終わったのか、と。ほっとしたのとも違う、悔しいのとも違う、説明のつかない気持ちでした。

復員は、九月の初旬です。召集から二ヶ月ほどで戻ることができました。あとひと月遅れていたら本土決戦に巻き込まれて、家族のもとには戻れなかったかもしれない——そう思うと、いまでも背筋が寒くなります。

東京に着いて、恵比寿へ向かいました。工場もない。事務所もない。道具も帳簿も、何もかも灰になっていた。十九年かけて積み上げたものが、全部なくなった場所に立って、空を見上げました。薄いグレーの空でした。嵐のあとの、澄んだ空。

焼け跡に立って、足元を見ると、焦げた地面の隙間から雑草が出ていました。ああ、こんなところにも草が生えるのかと、ぼんやり思いました。……生きているものは、伸びるんだなと。

それから何日か経って、焼け跡を片づけ始めました。瓦礫の中からかんなが一丁、出てきましてね。柄は焦げていたけれど、刃は生きていた。砥石を借りて研ぎました。ゆっくり、ゆっくり。……いい音がしました。

あの音を聞いたとき、大正十五年の朝を思い出しました。恵比寿の路地で大八車の横に立った、あの朝。何も持っていなかった。でも、かんなが一丁あった。二十年経って、また同じところに戻った。何もないところから、もう一度。

また、ここから始める。
何もないなら、大正十五年と同じだ。
あの時だってかんな一丁しかなかった。

その年の十二月には、もう工場と従業員の宿舎を建て直していました。焼失から、およそ七ヶ月です。私財を投じて、十月頃から動き始めました。……早いと思われるかもしれませんが、手を止めている暇がなかっただけです。やることは変わりません。ただ、目の前のものを、丁寧に作る。それだけです。

昭和二十年(1945年)五月二十五日、空襲により恵比寿工場全焼。
同年七月、國治自身に二度目の召集(一度目は昭和十六年)。
本土決戦準備部隊として出征し、八月十五日、戦地にて終戦を迎える。
九月初旬、召集から約二ヶ月で復員。
十月頃より私財を投じて工場再建に着手し、
同年十二月、焼失から約七ヶ月で工場および従業員宿舎の再建を完成。
日本梱包工業を長島興業株式会社に改称。
木材統制下にて原材料貿易公団の依託を受け、
関東一円の貿易用木材供給機関として事業を再開。
昭和二十三年に長島梱包運輸、昭和二十七年に長島梱包と社名を改め、
日本の高度経済成長期の梱包・物流を支えていくことになる。
昭和四十四年(1969年)藍綬褒章を受章。
昭和四十七年(1972年)十二月、逝去。従六位 勲五等 瑞宝章を賜る。

大八車のわだちは、この先も続く。

── Episode 01「黎明の時代」

ナガシマグループ
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