「長島興業株式会社」へ商号変更、
日立系列企業として再出発。
焼け跡のバラックを事務所兼住居に、資本金50万円で再出発。日立製作所系列として、物的流通の大動脈運営管理を所管する役割を担う。戦災者用の応急簡易住宅にも木材を回した。
昭和二十一年 春
恵比寿の焼け跡に バラック一棟
資本金五十万円 社員三名
長島興業株式会社 ここに再出発
手持ちの木材を 復興へ
戦災者の住宅へ 米軍宿舎へ
昭和二十四年 長野・松本へ
関東を越え 地方へと足を伸ばす
昭和二十五年 朝鮮動乱
戦時特需の誘いが 幾度も来た
だが國治は 手を出さなかった
「金儲けだけでは ない」
信用第一の道を 貫いた
昭和二十七年 七月十一日
『長島梱包株式会社』 現商号となる
昭和二十九年 東京都知事賞
昭和三十一年 通商産業大臣賞
昭和三十六年 戸塚工場 開設
日立工場の門前で 半世紀の縁を結ぶ
昭和三十八年・四十二年
本社が 二度 焼けた
だが翌日には 仮社屋で仕事は続き
木造から 鉄筋へと建て替えた
昭和四十四年
社員の机から 言葉が集まり
やがて ひとつに束ねられた
5つの信條
同年三月 國治 藍綬褒章を受章
昭和四十七年 十二月四日
創業者 長島國治 永眠 享年六十九
同月 長島子之吉 社長就任
だが 遺されたのは 空白ではない
焼け跡のバラックは 鉄筋四階建ての本社へ
焼け跡から、二十六年
復興は、たしかに成長になった
国家の動乱と高度経済成長の渦中で、長島梱包が選んだ道。特需より信用、量より質、そして言葉。すべての判断の根拠が、ここにある。
焼け跡のバラックを事務所兼住居に、資本金50万円で再出発。日立製作所系列として、物的流通の大動脈運営管理を所管する役割を担う。戦災者用の応急簡易住宅にも木材を回した。
松本市出川町888番地。宮田製作所からの要請で開設。後に富士電機松本工場の主要梱包拠点となり、長島梱包の地方展開の原点となる。
梱包業で日本最初のJIS表示許可工場として通産省認可。日立製作所戸塚工場から優良下請表彰。「梱包」を社名の中心に据えた、信用第一の宣言だった。
資本金を200万円に増額し、長國木材株式会社を資本金100万円で設立。梱包の最重要資材である木材を、グループとして自社で押さえる経営判断。後の多角化の原点。
1954年の東京都知事賞(安井誠一郎都知事)に続く快挙。「輸出梱包」という名前のない技術が、国家レベルの賞で評価された瞬間。
4月、横浜市戸塚区原宿町に梱包工場・倉庫・戸塚寮を新設。日立製作所戸塚工場の門前町に拠点を構え、大型電機・重電機・輸出向けプラントの梱包を引き受ける。1979年トライウォール工場、1992年「物流創造」へと続く半世紀の起点。
1963年3月、本社工場が不審火で約1/3焼失。隣接地に仮社屋を建て、その日のうちに業務再開。1967年5月、二度目の不審火で約2/3焼失。資本金を1500万円から2000万円に増額し、鉄筋4階建ての新本社ビル建設へ。1945年の戦災と合わせ、26年で三度焼けて、三度立った。
10月、東日本輸出梱包工業組合が設立され、長島國治が初代理事長に就任。同じ年、日立のベネズエラ向けクロスバー交換機C-22型 第1号機の輸出梱包に成功。1969年の藍綬褒章の「永年業界団体の指導的地位」評価の根拠となる。
全社員から提案を募り、子之吉常務を長とする幹部審査で「信條」五ヶ条が制定。同年3月29日、佐藤栄作内閣総理大臣から長島國治が藍綬褒章を受章。
1972年12月4日、長島國治が永眠、享年69歳。同月24日、田中角榮内閣総理大臣により従六位勲五等瑞宝章を授与。その月のうちに長島子之吉(41歳)が代表取締役社長に就任。残されたのは、5つの言葉と若い社長だった。
1969年。創業から43年が経った長島梱包に、全社員から信條案の紙片が集まりはじめた。「これだけは大事にしたい」という、1人1行の言葉。
子之吉常務を長とする幹部審査がそれを磨き、五行に束ねた。同じ年の3月29日、創業者・長島國治は佐藤栄作内閣総理大臣から藍綬褒章を受章する。
言葉と賞は、同じ年に生まれた。
1969年、社員ひとりひとりの机から集まった紙片。
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